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御神徳


乃木将軍の御神徳は、「忠誠」という語に表わされます。乃木将軍の、自らに対し、父母に対し、そして国に対して、誠を貫かれたという御事績は、我々日本人が大切にしてきた精神を表しています。
乃木将軍は文武両道の神でもあります。武においては軍人として数々の武勲や御事績が示している如く、また文においては学習院院長に任ぜられ、昭和天皇の御養育にあたられるなど教育者としての御事績や、数多くの遺詠や遺墨に接して明らかなように教行両全の真の学問の神です。
また、明治天皇に殉じられるまでの30有余年のあいだ、常に将軍の意を体して忠孝・質素・仁愛の志が厚く、内助の功を尽くされ、妻として乃木将軍に殉じられた静子夫人の淑徳清操のご生涯もまた世の尊崇を集め、共に夫婦和合の神として祀られています。

御祭神事績
幼少時代の父母の教育

父 乃木希次大人
(まれつぐうし )

母 寿子刀自
( ひさことじ)
生まれつき体があまり丈夫ではなかった無人(乃木将軍の幼名)は泣き虫な少年でした。もちろん妹のキネが風邪で寝ている時枕元にそっとお土産を買ってくるような優しさを持っていましたが、父母は体の丈夫な立派な武士に育てようとあえてスパルタ教育で無人少年を鍛えていきました。乃木将軍は父母の厳しい愛に育まれて成長していきました。

玉木文之進先生との出会い

旧玉木文之進宅
15歳で元服し学問の道を志した源三(元服した時の名)は、立派な武士になって欲しい父との意見が合わず、よくよく考えた末、吉田松陰の伯父にあたり萩に住む松下村塾の創始者玉木文之進の下へ家出をしました。吉田松陰は玉木先生の一番弟子として、塾をさらに盛り上げ発展させた歴史に残る人物です。玉木家は乃木家から分かれた家柄であり、両家の関係は深いものでした。ところが、玉木先生は突然訪ねてきた源三を叱り飛ばし長府に追い返そうとします。この時玉木先生の辰子夫人が引き止めてくれたので何とか玉木家でお世話になることが出来ました。しかしはじめは玉木先生から学問の教えを受けることは出来ず、昼は農作業で汗を流し、夜は辰子夫人に教えを受けるという日々が続きました。根が真面目な性格な源三は1年が過ぎる頃にはひ弱だった身体が別人のようにたくましく成長し、玉木先生も少しずつ学問を教えてくれるようになりました。

萩の乱、西南の役・・・軍旗喪失事件

少佐時代
源三は名を文蔵と改め、学問だけではなく武芸にも優れた青年として、その名を高めていきました。そして18歳の第二次長州征伐の折初陣を果たし、九州小倉での戦いで左足を負傷しましたが、長州軍は見事幕府軍を打ち破りました。そして明治維新を迎え、文蔵は明治4年23歳の若さで明治政府の陸軍少佐となり、名前も希典と改めて青年将校の道を歩み始めました。しかし明治政府の矢継ぎ早の政策は、地方の古い武士層の不満を高め、各地で反乱が起きました。希典の恩師玉木先生やその養子となった実弟正誼(まさよし)の住んでいる萩においても反乱が起こり、政府軍を指揮する兄と反乱軍を指導する弟はとうとう敵同士になってしまいました。そして弟の戦死、多くの教え子の反乱参加の責任を取った玉木先生の自決を悲しむ間もなく、西南の役が始まりました。植木の戦い(熊本県)において混乱の中で敵兵に明治天皇から賜った軍旗を奪われてしまいました。乃木少佐はこの軍旗喪失を軍人としてこの上なく恥ずかしいことと考え、その後終生苦悩の日々が続くことになりました。

静子夫人と結婚

左から、長男 勝典、妻 静子、次男 保典
西南の役後の乃木中佐は軍旗喪失に対して自責の念が絶えず、戦地に死処を求めましたが叶わず、大酒を飲んで気を紛らわす日々が続きました。周りの人々は荒れている乃木中佐のことを案じ、「奥さんをもらったら少し落ち着くのでは」と考えました。そして明治11年(1878)薩摩藩士湯地定之の四女静子と結婚しました。希典30歳、静子20歳でした。その後明治12年(1879)に長男・勝典が、14年(1881)に次男・保典が誕生しました。

ドイツ留学
大佐、少将と昇進した希典は明治19年(1886)に陸軍制度の研究視察のためドイツ留学を命ぜられました。ドイツでは任務を果たす傍ら、自国の伝統を大切にする質実な国柄、騎士道精神に触れ、自分の武士道精神をもう一度開眼させるという、じつに大きなことを学びました。ここに軍旗喪失後の自分の生き方に一つの区切れをつけたのです。心の迷いに打ち勝ち、積極的な生き方をします。軍の同僚や友人、知人は「さぞや乃木は西欧流のハイカラになって帰ってくるだろう」と思っていました。ところが帰国した乃木少将は、ハイカラどころか、家でも外でもどこに行くにもキリリとした軍服姿で通すほどのバンカラに変わっていました。乃木少将は、日本の軍隊は精神や士気がまだまだ十分なものではなく、部下の模範になるべき幹部将校の心が緩んでいるので、部下に軍人精神を高める努力をすべきであると主張しましたが、近代化を急ぐ軍部の首脳によってこの精神論は斥けられ、初めての左遷を味わうことになってしまいました。

日清戦争出征
一時軍を休職し、栃木県の那須野において農耕生活を営んでいましたが、乃木少将の意見は心有る人を中心に少しずつ軍の中心にも広がっていきました。その理解者の一人に明治天皇がいらっしゃいました。天皇は乃木少将の人となりをよく見ておられ、深い信頼を寄せられるようになりました。明治27年(1894)に日清戦争が勃発し歩兵第一旅団長として出征しました。乃木少将の見事な指揮が「名将乃木」の勇名を一段と高め、中将に昇進しました。

台湾総督

赴任前

台湾総督時代

母 寿子の喪中
日清戦争終結後、乃木中将は日本の領土となった台湾の総督に任命されました。この時乃木中将は一家をあげて赴任しました。そして母寿子はマラリアにかかり、2か月足らずで亡くなってしまいました。乃木中将は台湾島民の治安維持と民生の安定のために全力を尽くしました。自らが模範となり役人に清廉潔白、質素倹約な生活を求めました。日本と台湾の役人が心を一つにして現地人の生活習慣を大切にした徳のある政治を目指しました。
しかし、理解のない役人達に阻まれ、明治30年(1897)2月無念の涙をのんで東京に引き揚げざるをえなかったのでした。しかし乃木総督が徳を以って治めようとした業績は台湾の心有る人々に語り継がれていきました。

善通寺赴任(第11師団師団長)

乃木将軍が執務を執った旧第十一師団司令部
(別名乃木館 現在1階は
第14音楽隊が使用し、2階は資料館)
台湾総督辞任後、乃木中将は再び軍を離れ、時々那須の別邸に出掛けては自然相手に晴耕雨読の生活を送っていました。明治天皇は乃木中将の様子を心に懸けられ、香川県の善通寺に新設された第11師団の師団長をお任せになられました。乃木中将はこの直々の心配りに感激し、来るロシアとの戦争に負けない模範的な師団を作る決意を固め、単身で赴任しました。そして兵士と苦楽を共にして立派な精鋭部隊を作り上げました。

日露戦争出征
日清戦争の後、欧米列強によるアジアの植民地化が進む中、大国ロシアは清国東北部に進駐し、朝鮮半島にも勢力を伸ばそうとして来ました。日本はそれを阻止すべく明治37年(1904)ついにロシアと戦火を交えることとなりました(日露戦争)。乃木中将は旅順要塞の攻略のために編成された第3軍の司令官として出陣することになりました。それ以前に長男勝典、次男保典も出征しており、静子夫人に「父子3人が戦争に行くのだから、誰が先に死んでも棺桶が3つ揃うまでは葬式は出さないように」と別れの言葉を残して晴れ晴れしい気持ちで戦地に赴いたのでした。長男勝典(26歳)戦死の報が届いたのは、出航を目前に控えた広島でした。乃木中将は日記にただ一言「他言せず」と記し、戦地に急ぎました。戦地に上陸した日に乃木中将は大将に昇進しました。目指すロシア軍の旅順要塞は、事前の情報の3倍の兵力と火砲を備えた堅固なものでした。


旅順要塞 陥落
3度の総攻撃を行なっても落とす事ができません。多くの人命を失い、武器弾薬が底をつき、国内では動揺と批判が高まっていきます。決戦となった203高地の攻撃では、次男保典(24歳)が戦死しました。それでも乃木将軍率いる第3軍はひるむことなく敵陣を目指し、一進一退が続く激戦の末、翌年1月1日旅順要塞は遂に陥落しました。いざ戦いが終わってみると、疲れきった兵士達は両軍入り乱れてお互い国のために尽くした健闘を称え合ったといいます。乃木大将は昨日まで敵であったロシアのステッセル将軍の元へ食糧や酒をたくさん届けて、戦い疲れたロシア兵を労わりました。

水師営の会見
1月5日水師営という村の民家で乃木大将とステッセル将軍が会見する事になりました。明治天皇は敗軍の将であるステッセル将軍の名誉を重んじるように伝えられ、乃木大将はその心に沿って接遇しました。たくさんの記録写真を撮りたいという報道陣に対し、乃木大将はステッセル将軍を立派な将軍と写るように配慮した、友好的な写真を1枚許しただけでした。ステッセル将軍以下ロシア側の将校は軍装の上勲章を付けて帯剣しています。普通降伏の時には帯剣は許されませんが、乃木大将は先の明治天皇の思し召しをうけてこれを許していたのです。2人の将軍は近づいて心からの握手をしました。会見の途中ステッセル将軍が2人の息子を失ったことに対して同情すると、乃木将軍は「私の家はサムライの家なので2人の息子も晴れの死に場所を得て喜んでいるはずです。」と静かに笑って答え、ステッセル将軍を「日本の将兵の勇敢なことが今やっとわかりました。閣下のような名将がいればこそです。」と驚かせました。会見は終始友好的に進み、最後にステッセル将軍からアラビア産の白馬(後に壽号と命名)が贈られました。

中列左より レイス少将、乃木大将、
ステッセル中将、伊地知少将
昭和20年までの小学校国語の教科書には文部省唱歌「水師営の会見」が載せられていました。これは国文学者佐々木信綱が直接乃木大将に確かめてその当時のあり様をうたったものです。
1月13日旅順への入場式が行なわれ、翌14日戦病死者大弔魂祭(慰霊祭)を斎行し、乃木司令官の自ら書き読んだ弔辞にヒゲ面の戦士達も涙にむせんだのでした。


戦病死者大弔魂祭(慰霊祭)
乃木司令官率いる第3軍はそのまま北上し、3月陸軍最大の決戦である奉天会戦に参加します。ここでも旅順を陥落させたと恐れられた第3軍は、クロパトキン将軍率いるロシア軍の執拗な攻撃を受け苦戦を強いられましたが勇敢に戦い抜き、日本の勝利に貢献しました。

戦後の乃木将軍

凱旋時、握手をかわすご夫妻
日本国民は乃木大将を「英雄」「凱旋将軍」として迎えました。出迎えた人々の多くは旅順や奉天の戦いで肉親を失っていましたが、日露戦争が終わってから旅順と奉天の戦いがいかに困難なものであったかを知ったので、今や乃木大将を怨む者はいませんでした。しかし、乃木大将は沢山の死傷者を出してしまったという自責の念でいっぱいでした。明治天皇の御前に復命書を奉読した後、「臣希典不肖にして、陛下の忠良なる将校士卒を多く旅順に失い申す。この上はただ割腹して罪を陛下に謝し奉らん」と言って退出しようとしました。これに対し明治天皇は「卿(乃木)が割腹して朕(自分)に謝せんとの衷情は、朕よくこれを知る。しかれども今は卿の死すべきときにあらず、卿もし強いて死せんとならば、朕世を去りたる後にせよ」と言う意味の御沙汰があったといいます。この後も一人黙々と全国の遺族と傷病兵のお見舞いに回りました。

忠魂碑
忠魂碑や戦没者の墓碑銘を依頼されると自らの責任として進んで書かれました。また、自分のお金で傷病者のための病院を造ったり、自ら義手(乃木式義手)を考案・改良にも取り掛かっています。その他国からもらった賞金で金時計を作り部下の将校一人ひとりを労って手渡したり、下士官や兵士にお金を分配しました。
殊に巣鴨にあった廃兵院(戦争によって負傷、障害を持った人を収容した施設)には毎月1、2度は訪れ、各部屋ごと一人一人を見舞い、いつも何か手土産を絶やしませんでした。時折皇室からの御下賜品などをいただいたら真っ先に廃兵院に届けました。廃兵達はこの乃木大将の厚い情に感涙し、大将の来院を心待ちにしていたといいます。
先の水師営の会見の際、乃木大将はロシア将兵の戦没者を丁重に祀ることを約束しましたが、明治40年日本は各地に散在するロシア将兵の墓を旅順に集めてロシア風の墓地と顕彰碑を作って日本政府主催により盛大な慰霊祭を執り行いました。ロシア正教とロシア軍関係者を招き、乃木大将は日本代表として参列しました。この1年半後の明治42年日本軍の戦没者を慰霊する旅順白玉山表忠碑が建てられ慰霊祭が行われます。つまり以前の敵ロシア側の戦没者慰霊祭を味方の日本軍の慰霊祭より先に行っているのです。
日本軍の慰霊祭には乃木大将夫妻が参列していますが、乃木大将は自ら書いた祭文を奏上しています。ふつうは副官などが代わって書いたものを読んだりしますが、大将は全て自分で行いました。この時静子夫人は将軍夫人、第三軍司令官の妻としてではなく、二人の子息を亡くした遺族として遺族席の末席で目立たないように参列していました。

学習院院長

学習院院長時代
明治天皇はそのような乃木将軍の心を察し、「乃木も2人の息子を亡くして寂しかろうから沢山の子供を預けよう」と、明治40年(1907)に学習院院長をお任せになりました。この時乃木将軍59歳。乃木院長は将来この国を背負っていく子供たちが、贅沢や我儘をしている風潮を心配されている明治天皇の御心をよく理解し、質実剛健(しつじつごうけん)をモットーとした体当たりの教育を行ないました。乃木院長時代には昭和天皇をはじめ多くの皇族の方々が在学されています。
乃木学院院長の一日は生徒や職員と共に朝は生徒よりも早く4時半頃に起床、塩で歯を磨き、顔、手足、体を洗う。軍人としての心掛けから、余分な水は決して使わない。それが済むと、寄宿舎6寮の巡視。雨が降っても雪が降っても一日も欠かすことがない。初夏から晩秋には、それに草刈が加わる。終わって自室に戻り読書(音読)。午前7時に生徒と共に朝食。親しく声を掛け、姿勢の悪い者には注意を与える。7時半登校、8時の授業開始後は公務のかたわら各教室を巡視。一教室につき、始めから終わりまでの約1時間、後ろに厳然と立って授業を傍聴し、生徒の勉強ぶりを観察する。昼食は職員と共に職員食堂でとる。午後には武課、体操が行われ、運動場に立って生徒を注視する。放課後には剣道が行われ、これは何よりも楽しみとして自ら生徒に稽古をつける。5時に生徒と共に夕食。6時から10時までの生徒の自習時間に自室で読書(音読)。10時の消灯ラッパと共に生徒と同じく床に就く・・・以上が、学習院院長、乃木稀典の一日の生活です。

乃木将軍は、明治40年1月31日から大正元年9月13日までの5年間半、学習院院長(第10代)を務められました。その間、教育者として実践躬行の範を示し続けられたのです。院長就任の翌41年秋、東京の目白に新校舎が建てられ、乃木院長は、立派な院長官舎には
入らず、中等科・高等科の全生徒と共に寄宿舎に入り、彼らと起居を共にしました。酒豪かつ愛煙家であった院長は、一日の務めを終えてから自室で軽く一杯やっても構わないのですが、寮生活中は自制して禁酒禁煙を守りました。院長が教室で直接生徒を指導することはほとんどないからこそ、寮に住み込み、生徒に接する時間をできる限り多くして、顔と氏名を一人残らず覚えるのみならず、一人ひとりの性格や気質をしることにもつとめました。剣道、水泳合宿、遠足等いつも生徒と行動を共にしました。四谷には初等科、赤坂には女子部があって、週に何度かそちらに出向いて公務を統率し、赤坂の自宅に帰るのは
月に1〜2度。この生活が殉死の時まで続いたのです。
乃木院長のこうした日常が、年少多感な生徒に多大な感化を及ぼさずにはおきません。学習院の生徒は当時、華族の子弟が大半でしたから、贅沢に甘やかされて育った者が少なくありません。寮生活を不自由・不便に思う者もいましたが、明治天皇の信任も厚い天下の老名将(在任時59〜64歳)が生徒と同じ生活をしているので、不平不満を言い様もなく、在任1か月もたたないうちに生徒は乃木院長を慈父のように慕い敬い、皆「うちのおやじ」といい合うようになりました。乃木院長は、郷里の友人に宛てた手紙の中でこう詠んでいます。“寄宿舎で 楽しきことを数ふれば 撃剣 音読 朝飯の味”

殉死

御殉死当日(居間にて)
明治天皇が重い病気と発表されたのは明治45年(1912)7月のことです。国民は毎日のように皇居の前に足を運び、早く元気になられるように祈りました。乃木将軍は1時間ほどお祈りをしてから天皇のおそばに仕える侍従武官にその日の御容体を詳しく聞いて帰ります。たびたびお見舞いに来るので、天皇はその足音を聞かれただけで「また乃木が来た」とおわかりになったご様子でした。しかし、国民の懸命の祈りも空しく天皇のご病気は日を追って悪くなり、7月31日61歳で亡くなられました。明治天皇を心の支えとして生きてきた乃木将軍の悲しみは、いかばかりであったでしょうか。
大正元年(1912)9月13日、この日は国民が明治天皇と最後のお別れをする御大葬の日です。午前8時、乃木将軍と静子夫人は記念写真を撮り、9時宮中に参内。午後は自宅で地方から来た多くの客と過ごしました。そして午後8時、桜田門外の近衛砲兵隊の弔砲を合図に寺の鐘が一斉に鳴り響きました。この時乃木将軍御夫妻は明治天皇の後を追って亡くなったのです。乃木将軍64歳、静子夫人54歳。御夫妻が亡くなった2階の部屋のテーブルには9月12日付で、乃木将軍が次の人々に宛てた遺言書が置かれていました。湯地定基(静子夫人の兄)殿、大館集作(乃木将軍の末弟)殿、玉木正之(乃木将軍の次弟・正誼の子)殿、そして「静子どの」・・・

9月18日の葬儀は、約20万の人々が見守る中で行われました。日露戦争後、戦勝気分に浮かれ、白樺派や共産主義が芽生えるなど国民精神が弛緩し、明治から大正へと時代が切り替わっていく中で、乃木大将が若い頃に軍旗を奪われた負い目を30数年間背負い続けこのような最期を遂げられた事は、いわゆる忠義を働くというというだけでなく、何よりの国民への警鐘でありました。


当時のニューヨークタイムス
乃木大将の殉死に対して海外のメディアも肯定的に扱っています。アメリカ・イギリスの国々は新聞で次のように書いています。「…我が同盟国日本がその偉大さを負っている精神が、依然として生き続けていることの驚嘆すべきしるしである。…西欧世界は、仮にその意味を残りなく汲み尽せぬまでも、静かに頭を垂れて敬意を表さねばならない。故乃木伯爵のような人々が明治の時代をつくったのであり、この時代は、乃木伯爵がその身を献じた大帝(明治天皇)の崩御とともに、名実ともに過ぎ去ったのかも知れないのである。…」と
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